社長のふと思う 第三十六回 ”歌舞伎座開場に思うこと その1”

歌舞伎座開場に思うこと -その1-

4月2日より始まった新・歌舞伎座(第五期)の杮葺落(こけらおとし)公演の3ヶ月が無事に過ぎた。7月は若手の花形歌舞伎で尾上菊之助、市川染五郎、尾上松緑らが初役にそれぞれ挑む。(杮葺落公演は一年続くのだけれど・・・。)


2010年4月の閉場式から開場まで2年11ヶ月が経っている。言うまでもなく、この短い期間に5人の名優が旅立ってしまった。中村雀右衛門、中村富十郎、中村芝翫、そして昨年12月には中村勘三郎、今年二月に市川團十郎といった長年舞台でのその姿を観てきた役者が、新しい歌舞伎座の舞台にはもういない。寂しくもあり、人の命の儚さも身に沁みる。

ことに中村富十郎丈には思い出がある。先代が叙勲のおり、全鍍連の会長も努められた、吉川弘二氏が、有志で神田明神下の料亭、「宝亭」でお祝いの席を設けてくださった。その時、吉川氏は“御祝儀”に何と中村富十郎丈を招いてくださったのである。
長年、藤間勘十郎師について日本舞踊の研鑽をされていたご長男の奥様が、富十郎丈の歌舞伎座での出演が終わるのを待って、宝亭までお連れくださった。黒紋付に袴という出立ちで、はたして何を舞ってくださったのか・・・御祝儀曲には違いないのだが、はっきりと憶えていない。ただ、きっちりと安定した型に“踊りの上手とはこういうことをいうのだろうか”と漠然と感じたことだけは、記憶に残っている。


まあ、そのときの芸者衆の“騒ぎ”といったら!他のお座敷の芸者衆まで富十郎丈の踊りを一目見ようと覗きに来る始末で、よく襖が倒れなかったものだと感心するほどである。日頃より、日本舞踊を業としている彼女たちにとっては、富十郎丈は「雲の上」の存在のようであった。控室には、吉川氏やご長男の奥様はもちろんのこと、芸者衆も押しかけてくるので、こちらは襖を開け放しの状態で賑やかなことだった。

今思い返すと、先代の吉川氏には、ほんとうに大変なご配慮をいただき、ただただ感謝でいっぱいである。父とも気が合ったとみえ、お酒を召し上がらない吉川氏がクリーム色の“センチュリー”を運転して迎えにきてくださり、色々なところに私もご相伴で食事に連れて行っていただいたことが懐かしく思い出される。


ある時、吉川氏は“お茶のお稽古がしたい”とおっしゃるので、私の師を紹介させていただいた。が、なんと! 私に教わりたいとおっしゃるではないか! 結局、私も根負けし父も吉川氏のお稽古に付き合うことになり、何とも不思議なことになってしまった。

以来、歌舞伎座の舞台で富十郎丈を観るたび、宝亭でのことが思い出され、勝手に私は親しみを感じていた。もう十五、六年も前になるだろうか。冬、歌舞伎座の夜の部の公演が終わった後、私は友人とおでん屋のカウンターに居た。しばらくして親子ほども年が違う男女の二人連れが入ってきて、私たちの隣りに座った。チラッと見ると、男性のほうは、富十郎丈ではないか! 女性の顔はよくわからなかったが和服で身のこなしがきれいな方だったので、日舞の関係者かな、と思っていた。

宝亭からはすでに十年以上の月日が経っていて、富十郎丈の髪も真っ白になっていた。ややあって、ネクタイにおでんの汁を垂らしてしまった富十郎丈を「しょうがないですね。」という風情で、連れの女性はおしぼりでネクタイを拭いてあげていた。その後、間もなくお二人はご結婚された。

そしてお二人のご長男は「中村鷹乃資」として、まだ十代だがお父様の跡を継ぐべく一生懸命お稽古をしていると、現吉川社長の奥様より伺った。やはり藤間勘十郎師について研鑽しているそうだが、熱心さが他の人より抜きんでているというお話だった。

継承していくということは、血筋は継いでいても、そのままではダメだということだ。“素の自分”を名跡を継ぐにふさわしい存在に育て進化していかなくてはならない。持っている才能も鍛え上げなければ、大したものにはならない。継ぐべきことがあるのは有り難いことでもあるが、プレッシャーでもある。大なり小なり、皆それぞれが、それぞれの“頂き”を目指して奮闘している。私も世間的には決して若い世代ではないが、日々少しでも進化していけるよう初々しい心は持ち続けていたいと思う。


富十郎丈は私のことなど知る由もないことだが、一方的に人のご縁というものは不思議なものだと思っている。お盆が近いせいか、ふと亡き人たちのことがとても懐かしく、愛おしく思い出されるのである。

Yuri

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社長のふと思う 第三十五回 「野良猫・外猫・地域猫」

野良猫・外猫・地域猫

2011年3月11日の震災後、獣医の方やボランティアの方々が多勢、被災地を訪れ、被災された方々に代わり多くの犬や猫を保護し、また現状把握確認を行われた行為には心を込めて敬意を表します。

現在も被災地の動物の保護活動を続けていらっしゃる、川崎の動物愛護病院様にご縁をいただいたことで、京浜島の猫たちの去勢・避妊が進みつつあります。

ここ数年、「野良猫問題」として、私が所属する地域の環境委員会でも、たびたび取り上げられてはきましたが、昨年予算をつけていただいたこと、島内の猫の分布状況の把握、そして全島の組合・会社への呼びかけ、ボランティア活動をしてくださる方の募集・・・。そのおかげで25年4月現在で73匹の去勢・避妊手術を行うことができました。多くの関係者の方々には、心より御礼申し上げます。

ただ、ボランティアとして呼びかけているだけでは、なかなか各社の経営者の方のご理解がいただけない現状もあります。やはり、動物に対しての好き嫌いはあるので、仕方のないことだと思います。が、大田区と共同で、「捨て猫防止」の札を、島内何ヶ所かに設置していただいたことは啓蒙活動として、有り難いことだと感謝しています。

私個人が捨て犬、捨て猫の保護を始めたのは、昭和58年に遡ります。私共の会社の立地は、東京湾に面し羽田空港も近く、京浜大橋、京和橋という合計三本の大きな橋でつながっています。居住地としては認可されていない、工場専地でもあります。

ここに、犬猫を捨てに来る人が多かったので、保健所の車が犬の捕獲に頻繁にくるような地域でもありました。(多摩川の河川敷等では、現在ボランティアの方が犬や猫を捨てさせないようパトロールしているそうですが。)

そんな環境の中、保健所の捕獲から逃れた“狂暴な犬”と出会ったのが最初です。(詳しい話はブログに譲ります。)約半年後にその犬は我社の犬となり、間もなく六匹の子犬も生まれました。そのうち三匹は、縁あって飼い主が決まり、今でもその犬たちの子や孫や代が、元気に散歩している姿を見かけると嬉しくなります。

猫がいなくなると鼠が増えるのと同じで、その後、野良犬は1匹もいなくなり、この地域は猫がとても増えた時期がありました。私が見て回れるのは、主に京浜島二番地から十番地にかけての地域ですが、平成8年より否応なく始まった猫の保護は70匹を越えます。野良猫化している猫たちは猫エイズのキャリアが多いので、発症が遅ければ15年以上生きる猫もいますが、早い猫は、生まれて一年も生きられない場合もあります。

もちろん、交通事故で亡くなる猫もいますし、発見後、獣医さんへ連れて行き助かる猫もいます。

そして現在は、会社に8匹、管理している外猫が10匹、我が家には17匹、計35匹の猫がいます。みんな京浜島で出会った猫たちです。もちろん、去勢、避妊手術はしています。おかげで、ここ2、3年は外の猫全体も減少傾向にあります。

社員さんの中でも動物好きな方、何人かに手伝ってもらいながら、日々世話をしているわけですが、餌代、猫砂代はすべて私費ですので、なかなか大変なものす。でも、前述のこうした一年の活動の中で、知らないところで個人で活動してくださっている方がたくさんいらっしゃることも知りました。

「不幸な猫を増やさないように」と始まった活動ですが、今年も皆様と共に、この灯火を消さないよう、さらに尽力していきたいと心を新たにしています。

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社長のふと思う 第三十四回 「拾った子(二)」

拾った子(二)

  「もう大丈夫だから。
  お医者さんに診てもらおうね。
  何ていう名前にしようか。
  元気になったらウチで一緒に暮らそうね。・・・」

  そんなたわいもないことを話しかけながら、親指の痛みを我慢し、いつもの何倍も慎重に車を走らせた。ずっとそのネコは静かだったが、一度だけ「コホッ、コホッ」と小さな咳をした。
  やっとの思いで病院に着き、待っていてくれた当直の先生たちと治療室へ。キャリーケースを開けても警戒していて出てこない。出そうとすると抵抗する。結局、タオルに噛み付いたまま引っ張り出されてしまった。外傷はないが、噛みついたタオルには血が滲んでいた。キャリーケースの中のペットシーツにも・・・。
体温が35度をきりそうで、ネフローゼも起しているという。そしてレントゲン室へ。「危険な状態です。」そう、先生は言った。

  待ち合い室でじっと待つ。

  初めは、絶対助かると思っていた。動けないものの、頭をしっかり起して走って来る車の方をじっと見ていたのだから・・・。咳をして血が出ていたということは、内臓にも損傷があるのかもしれない・・・。猫の体温は人間より高いのに、それが35度をきってしまうなんて・・・あまり明るくない、たった一人で待つ待合室での時間は、時計の針が遅れているのではないかと思うほど長く感じた。

  「どうぞ」という声がして、レントゲンの写真を見せてもらう。腰の少し上の背骨が折れて、ズレているのがはっきりとわかる。神経も分断されてしまっていて、下肢が動かなくなっているということだ。さらに、このレントゲンだけではよくわからないが、やはり内臓にも損傷があるらしい。

  さらに奥の部屋へ案内される。そこは先ほどの治療室ではなく、手術も行える人間なみの設備の整った部屋だった。その診察台の上で横になっているその子は、拾った時よりもさらに小さく感じられて、点滴をはじめたくさんの管や、呼吸器が装着された姿は痛々しかった。無機質な心電図の電子音だけが空々しく響き、その子の命が消えていきそうなのが辛かった。心電図の波は激しく上下したり小さな波になってしまったり・・・。注射を打ったり、点滴に直接、薬を入れたり・・・。先生も3人がかりで処置をしながら様子を見守っている。

  やがて心電図の波長は一直線になってしまった。それでも、小さな体に一生懸命、心臓マッサージをしてくれている。すると、心電図の波はまだ動きを示している。
  そんなことが何回か繰り返され、呆然としていた私はやっとの思いで、
「もう、いいです・・・。ありがとうございました・・・。」
とだけ伝えた。

  心電図は何も表示しなくなり、たくさんの器具や、点滴の針がはずされていく・・・。開いたままの眼を、何度か撫でて閉じさせてくれた。体を拭き、毛もきれいにブラシでとかしてくれた。ただ眠っているだけのような穏やかな姿に整えてくれた。

    ・・・名前もつけてあげていなかった。今度生まれてくるときは、
    愛されて大切    にされて、伸び伸びと、
    痛い思いもせず幸せな一生を過ごせるように・・・。
    その気持ちを込めて『まる』にした。
    欠けることのない円相のようにと願って・・・。

  病院での会計の時、名前を伝えないといけないと言うよりも先に、明細書の上には私の名前と共に「拾った子」と印字されていた。

  翌日、その子は『まる』として、ペット霊園で弔ってもらった。新しいかわいいタオルにくるんで、たくさんのお花と、ペットフードも入れて、ただ幸せに、と祈った。

  助けてあげられると信じて動かしたことが、よけい内蔵の損傷をひどくしたのだろうか・・・。でも、あのままにしていたら、他の車にまた轢かれてしまったかもしれない・・・。『まる』がジッと走って来る車の方を見ていたのは、きっと警戒していたのだろう・・・。何時間、そうしていたのかわからないけれど、動けない体で車が自分の方へ走ってくるなんて、どれだけ恐い思いをしただろう・・・。

  そんな思いがずっと私の中にある。『まる』に噛まれた親指は、生えてくる爪さえ変形させてしまった。きれいに伸びるまで、まだ何ヶ月もかかるだろう。爪を見るたびに『まる』を思い出して胸が痛む。『まる』の姿は一日にも満たないうちに、私の前から消えてしまった。『まる』の名残りは、この親指の爪ばかりである。

Yuri

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社長のふと思う第三十三回  「拾った子(その一)」 

拾った子(一)

これは二十四時間にも満たない、ある黒い一匹の猫との出会いと別れの物語である。

一月も末のある寒い夜、仕事の都合で会社を出て帰途についたのは午後七時半を過ぎていた。京浜大橋を渡り、このまま真っすぐ三五七で帰ろうか、左に折れてよく通る迂回路にしようか、ほんの一瞬迷った。この時間ならわざわざ迂回しなくてもスムーズに走れる・・・だが、その“ほんの一瞬”の末、私は左に折れる道を選んでいた。臨海斎場の前を過ぎ、もう少しで八潮団地へ入る交差点の三百メートルほど手前で、ライトに反射して光る二つの眼があった?ような気がした。その道路は、横断歩道もほとんどなく、トラックをはじめ車がビュンビュンとばしていくような道路だ。そんな道路の中央分離帯によりかかるようにして、横座りで走ってくる車を見ているような猫がいるだろうか・・・・

眼があった瞬間から、血圧が上がり、心臓の鼓動が早くなるのがわかった。八潮団地へ入る大きな交差点を過ぎ、近くの駐車場でUターンして、その場所に戻ってみることにした。その後の待ち合わせの約束もあるし、目の錯覚であることを祈りつつ・・・。

このあたりだろうと思うところに車を停め、中央分離帯に駆け寄った。が、しかし、何の植栽かわからないが、びっしり枝と葉が茂っていてとても通り抜けることができるような状態ではない。交差点近くのほうはフェンスになっているので、そこから反対車線側に出ようと思うと、植え込みとフェンスに切れ目はなく、そのフェンスも私の足の長さをはるかに上回るものだった。Gパンであることを幸いにかなり必死でそのフェンスをまたぎ、さっき車で走ってきた道を、走ってくる車をやり過ごしながら戻った。

やっぱり見間違えかな?と半ば思いつつ進んで行くと、その猫は、やはりさっきと同じ横座りなままそこに居た。・・・あぁ、昔、コロと呼んでいた外猫が、休み明けの月曜の朝にも姿をみせず、名前を呼んでいるとかすかな鳴き声がして、声のするほうを捜しに行くと、動けないまま植込みの中に隠れていたことがあった。あの時、コロは車にはねられていて、多分、前足を使って自力でそこまでたどり着いたのだろう。あの時と同じだ・・・

「どうしたの?!動けないの?!大丈夫?!」と声をかけながら、車がくるので植込みの上のところに抱きかかえられながらやり過ごしていたところ、右の親指を思いっきり噛まれた。すごく痛かったが放り出す訳にはいかず、かといって、このままでは車まで辿り着けない・・・たしか、トランクに猫用のキャリーケースがあったっけ・・・猫を植込みの中にそっと置いて、走って車まで戻った。素手ではダメだと思い、手袋をしようと右手をみると案の定、爪の生え際と指の腹から血が流れていた。こういう時に限って軟膏の一つも持っていないことを悔やみながら。親指をティッシュでグルグル巻きにし、手袋をした。

キャリーケースに押し込むようにして捕獲し、背後から来る車を気にしながら、車へ戻る道を急いだ。

猫の牙には毒があるというが、痛みと噛まれたショックからか、右手がジンジンと痺れてきた。かかりつけの獣医さんはとっくに診療時間は終わっているが、時間外診療で構わないから診てもらおうと、携帯の番号を押そうとするのだが、痛みと痺れで何度もミスしてしまった。どうして短縮で登録しておかなかったのだろうと後悔しつつ・・・。

こんな右手で、ちゃんと車を運転して行けるだろうか。ここから第一京浜の六郷土手近くまでそこそこの距離はあるが、どの道を通って行けばいいだろう・・・。

家からはさらに遠くなるので約束はキャンセルしなくては・・・。

動揺している自分に「落ち着け」と言いながら、診療所目指して車を動かしはじめた。

Yuri

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社長のふと思う 第三十二回 「様(さま)を見よ」

 「様(ざま)あみろ」、「ざまあ見やがれ」・・・・・・歌舞伎の世話物の中でよく聞く台詞である。もともとは「人やモノの様子を見ること」が、相対する人物の失態や凋落ぶりに対する啖呵として使われるようになった。当然、この二人の間に好感情はない、私たちも口に出して言わないものの、心の中でこんな思いや言葉が湧き上がってくることがあるものだ。

 今、パナソニックやシャープという、日本の高度成長期の一翼を担っていた、家電の大手が苦しんでいる。業績の悪化にともなって行われる大規模な人員削減。「早期退職者募集」というリストラである。そして本来は、辞めてほしくない優秀な社員が率先して、会社に見切りをつけて辞めていく。
中国や韓国のメーカーは、今がチャンスと技術者の確保に躍起になっている。最近では、技術者に限らず役員クラスの引き抜きも表立ってきた。実際、韓国のサムスンの日本法人の社長以下の役員は、日本企業の出身者ばかりだ。技術者の日本企業からの大量流出の問題は深刻である。
ある信用調査会社は、日本全国のシャープの協力企業から、中小の下請企業、金融機関にいたるまで聞き取り調査を行ったという。総じて聞こえてくる声は、「仕事があるうちは付き合っているが、積極的な協力はしない」「もうこれ以上は付き合いたくない」というものだったという。コスト削減のツケをかぶってきた下請けのほとんどが「ざまあみろ」と思っているらしい。いまだに主要銀行の協力が取り付けられない背景には、このような事態も影響しているのかもしれない。

 大企業は「協調性」や「コンセンサス」という言葉に置き換えて、異能な人を排除する風土になっていったようだ。あのソニーですらである。
取引先の社長がトルコに行った時、液晶テレビが、どこのホテルでもサムスン製だったことにショックを受けたと話されていた。世界を席巻していたソニーのテレビは、ヨーロッパのホテルでも見ることはなかったという。「技術者の個性を活かせ」とはかつてのソニーの盛田氏の言葉だ。
「目のつけどころがシャープでしょ。」
そんな視点で次々と新製品を投入していたシャープの姿は、今はない。

 そんな「様(さま)」を見ながら、私たちは何に思い到るのだろう。「人のふり見て、我がふり直せ」と言われているが、まさにその通りだと思う。自分(本体)の利益と保全を最優先するあまり、社員をはじめ多くのかけがえのない「人的財産」を失っていった企業群・・・。「会社」は、建物や設備、インフラといったハード面だけでは成り立たない。そこに「人」が介入することによってはじめて機能するものである。会社に活きた血を通わせるのは「人」そのものである。「人」の会社や携わる仕事への思いが離れてしまったら、機能不全になってしまうだろう。
 私たちも今だからこそ、真剣に自分たちのことを見つめ直さなくてはいけないと思う。仕入先に対して、あるいは自分たちより小さい、弱い企業に対してどんな気持ち態度で接しているだろうか。社員一人一人にたいしてはどうだろうか。欲しがるだけでは「愛」は得られない。まず放出すること、与えることが先である。ならば利益もしかり、のはずだ。「愛社精神」という言葉は死語になってしまったかもしれないが、社長も社員もパートの人にいたるまで、「愛」によって有機的に機能している会社は、どんな環境にあっても強いに違いない。
 さて、個性を尊重しながら「一致団結」(これも古い言葉だ・・・)を目指して、何からはじめようか。

Yuri

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社長のふと思う 第三十一回 「二〇一三年」

二〇一三年が明けて

あけましておめでとうございます。
昨年も多勢の方々のお世話になり、また、たくさんのお力添えをいただきましたこと、あらためて御礼申し上げます。おかげさまで七日に無事に「仕事始め」を迎えることができました。ありがとうございます。

振り返るとリーマンショックが遠い昔に感じるほど、以後の四年間は厳しい状況の中で推移してきました。昨年十二月の選挙で自民党へと政権は移り、市場も経済界も〝アベノミクス〟への期待は大きいようです。ただ、〝自民党を選ぶ〟というよりは、〝民主党へのノー〟の結果であるむきも多いことでしょう。「次元の違う成長戦略」に期待したいところです。かつての「国策」と言われたような施策も、産業界が世界での競争力を巻き返し、経常赤字を恒常化させないためにも必須のことと思われます。
そのような環境の中で中小企業に携わる私たちは、日々、何を心がけて仕事をしていけば良いのか・・・。これは常に頭から離れないテーマです。世界中が、政治も経済もあらゆる問題を抱えている時代。後世の人達は何という呼び名をこの時代につけるのでしょうか。

そうした低迷と混迷のカオスのような時代でも、光や明るさ、暖かさ、豊かさ、幸せ・・・・・・。そのことを思い浮かべただけでも、思わず笑みがこぼれるようなキラキラとした想いを、私は大切にしていきたいと思っています。熱く爆発すような生命のエネルギーや情熱だったら、最高です。
人も花も自然界の中に存在している以上、自ずと〝明るさ〟=〝光〟に魅きつけられる習性です。これから先のことを不安や心配で自ら塗り固めるのではなく、たとえささいなことでも一瞬一瞬に集中することで、惑わされずに日々を過ごしていきたいものです。

この「二〇一三」という年は、こうしてみんなに訪れている暦の上での年というよりは一つの記号、一つのシンボルとも言われています。それは〝実働〟〝実践〟〝行動開始〟というシンボルです。
「たった今、二〇一三の意識を発動せよ!」とういことでしょうか。この気持ち、意識で一年を、私自身、まわりの人々や会社といった関わるすべてに役立てていただければ、と思っています。

昨年は、忙しさに紛れて、このブログもお休みしてしまいました。反省と共にまた心を新たにしていきます。

どうぞ皆様も豊かな日々を過ごされますよう、弥栄の繁栄を心よりお祈りしています。

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社長のふと思う 第三十回 「老いの華」

先日、「関寺小町」という能を観た。作者は世阿弥といわれて、百歳の小野小町を主人公にした最奥の曲とされているものだ。
能では女性を演じること、老いを表現することを重くみる。その両方を兼ね備えた「老女」を「シテ」(主役のこと)とする演目は、シテを勤める演者の技量、精神性も問われるため秘曲として扱われ、現実の老女を描く「関寺小町」はその最高位におかれている。

当日、シテを演じたのは観世宗家。宗家は早逝した方もあり、宗家自身が「関寺小町」のシテを演じるのは、何と二百年ぶりということだ。現在の宗家は私とほぼ同世代なので、「関寺小町」のシテを演じるには、まだまだ若い。他の能楽師がこの年代で演じることは、まずないと思う。
この日の会は、能楽囃子・葛野流大鼓方で人間国宝の亀井忠雄師が、古希を記念しての自主公演なので、ぜひに、と宗家に話をしたらしい。なにしろ、宗家に小さい頃から大鼓の稽古をつけてきた人なのだから、宗家も納得したのだろう。
「先人の教えを次の世代につないでいくのも私の努め―――」
そう師は語る。そして2時間に及ぶ長丁場。演者も囃子方も、相当な集中力、体力、気力ともに要求される。大変な舞台である。

あらすじは、七夕の日に近江国関寺の住僧が、和歌を習っている稚児を伴い、歌道を極めたという老女が住む庵(いおり)を訪ねる。老女は請われて語るうちに、自分が小野小町であると口をすべらせてしまい、恥ずかしがる。かつての栄華の日々を偲び、今の老残の身を嘆き、日々、感じることを、折につけ筆を取り歌を詠む身の寂しさを嘆く。住僧たちは、小町を七夕の祭に誘い、稚児が舞を舞い、興にのり小町も「五節の舞」を宮中に居た頃を思い出して舞う。しかし、舞の袖はひるがえるが、昔に還る袖はないと、なお昔を偲び、世が明ける頃、小町はまた庵へと一人帰っていく―――――。

前半の小町は、座して語り、あまり動かない。「五節の舞」を、きちんと舞っているのだが、杖をつきながら扇をかざし、足元がおぼつかないような態で舞う。舞の途中、シテ柱に寄りかかるように、立ち膝の形で杖を抱え坐ってしまう―――
大きな声では言えないが、ここに至って私は、はっきりと目が覚めた。うずくまっているようなその姿が、私には本当にかつて美貌をうたわれた小町の老いの姿のように見えたのだ。「老い」というと「老残の身」という言葉があるように、醜い、あさましい姿という印象がある。それは間もなくやってくる「死」から逆算してみると「朽ちつつある肉体」の姿でもある。肉体の崩壊イコール死―――であるならば、小町はその境界線ぎりぎりのところで生きている。では小町は老いの身をさらして醜悪なのだろうか。いや、決してそうではない。美しいのだ。その美しさを何と表現すればよいのだろうか。
百年を経てもなお豊潤な香りを放つ、ワインのようでもあり、また宝石のようでもある。「珠玉の玉」ともいえるかもしれない。私たちが知っているダイヤモンドやエメラルドといった煌きではなく、真珠のようなやわらかさでもない。深みのある翡翠のようでもあるが、もう少し華やかさがある・・・・・・。オパールのイメージに近いかもしれない。見る角度や光によって様々な姿をみせる・・・・・・。もしくはスターサファイアのような変幻自在に表れる一瞬の光にも似ているだろうか。

醜い老いも、確かにあると思う。しかし、若さや生まれながらの資質を越えた、老いの美しさもまたあると思う。 
この日、私が見た小町はほんとうに美しかった。演者が誰であるかを忘れてしまうくらい、目の前に佇む老女は小町そのものだった。恋に生き、歌の道をひたすら歩んできた小町の、齢を経てたどたどしい姿の中にも、高い精神性が縦糸のように貫かれ、老いの身を嘆き、自嘲しているかのようであるにもかかわらず、そこに恥じらいの心が垣間見えて、崇高にすら感じられた。

大鼓も、一打々々が生命の火花が散るように真剣そのものだった。古希を迎えられたその姿にも「老いの美しさ」が確かにあった。先代から引き継いだものを次の世代へと、また手渡していこうという、長い長い何百年という道程の中の一つの世代としての自身を見つめる眼差しは鋭い。

「美しさ」には精神性や想いが必要なのだと改めて実感した一日である。いつか、着飾らなくても美しい姿であるように、私も一日々々を大切に、よい齢を重ねていきたいと強く思った。

Yuri

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社長のふと思う 第二十九回 「三ヶ月」

東日本大震災により被害を受けられました方々に、心よりお見舞い申し上げます。そして、今なお、生活・事業等の支障を抱えていらっしゃる皆様が、復興へむけて新たなる道を邁進していかれますよう心よりお祈りいたしております。

一日も早く道筋が明らかになりますように・・・

あの三月十一日から三ヶ月が経としている。地震・津波・放射能の汚染・電力不足・原子炉の問題・物不足・・・・・・そして長引く避難所での生活・進まぬ復興・迷走する政権・・・・・・。

時間の経過と共に色々な問題が明らかになってきている。地震・津波は起こってしまった事実である。が、その後の流れは人的な問題である。全国展開している企業や店舗は、阪神淡路大震災の時の教訓を活かし、素早く行動した。そして、各社が短期間で業務を立ち直らせている。需要に対する供給が滞らないようにと、全力で社員の方々も動いた。
企業ができたことが、なぜ国に出来なかったのか。「想定外」という言葉も聞き飽きた。原発事故は収束したわけではなく、今も現在進行形で何ら収まりの目途もついていない。放射能の線量をどう減少させていくのか、汚染水の処理をどうするのか。何も確たる決まりもないまま、放射能は洩れでている。

植物やある種の微生物は、放射能を吸収したり食べてその線量を短期間に激減させるとう。活性炭等でも吸収させることができるが、放射能を吸収した活性炭をどう処理するのか、という次の問題が出てくる。

先月、来日した韓国の前科学技術部長官、李祥義氏は「放射能を愛することが大事だ」という趣旨の発言をした。微生物は放射能を食べて分解してしまう。韓国でも台湾でも実効性が認められているのに、日本を代表する学者の先生方は「200%あり得ない」と否定する。

緊急事態は、可能性のあることを順次早急に実行すべきだ。権益や体裁や何かしらの報酬に引きずられている場合ではない。今ほど人々が国を、政治を信用していない時代はないかもしれない。少なくとも戦後から今日に到るまでは。

汚染水も、日本の処理能力は年間八千トンと言われているが、すでに二万二千トンに達している。震災後、すぐに来日したアルヴァ社(フランスの原子力の専門会社)に頼むと、処理時間も日本よりはるかに短時間でできるらしいが、一トンあたり一億円というコストがかかるらしい。・・・こうして様々な情報だけが索走し、現実的な実行手段はまだ決まらない。

三ヶ月といえば、一つの季節が巡る時間だ。あの春の日から梅雨に入り、初夏の日射しを感じる季節になった。じっとしていると、それは去年や一昨年と変わらない、初夏の一日のように思う。しかし、変わってしまった多くの世界、価値観がある。豊かに平穏に暮らしている世の中でも、災害や困難が起こるという、私たちが忘れていた現実を、日本中の人が実感した。

それでも、そのたびごとに人々は立ち上がり、新たな世の中、新しい時代を作り、築きあげてきた。私が今、一番思っていることは、すべてを国や政治のせいにするだけでなく、自分自身が生きていくために、どのくらいのエネルギー、バイタリティがあるか、ということである。「自助努力」できる能力と言ってもいい。人は一瞬一瞬、呼吸し、食し、排泄し、安全な場所を確保し、生活の糧を得て、生きていかなければならない。先述した李前長官の「愛することが大事」という言葉も深い。イヤなもの、汚いもの、危険なものを避け忌むのではなく、「受け入れる」というスタンス。

人は、とかく好きなモノへは集中するが、イヤなモノは排除しようとする。私もそうだ。だが、事実を事実として、感情に流されず冷静に見つめ、好悪つけることなく受容し、広い視野で物事を見つめ、対処することができたなら、きっと私の回りの世界も変わるだろう。達感しながら、こだわらずに、まず自分が踏んばる。無事でいる私たちは今まで以上に「自助努力」の気持ちを持って働き、自社にこだわらず業界の発展にこれまで以上に力を注いでいくべきだろう。経済の発展なくして何にも及ぶ被災地の支援などできるわけがない。

私共のささやかな会社でも、今回の震災は考えさせられることがたくさんあった。今後の業務のあり方、通常よりのリスク管理、危機対応といったあらゆることを見直す機会を与えられたと思っている。

ずっと原稿を書かなくては――――と思いつつ書けずにいた。震災のことを避けて通るべきではないという想いがある一方、友人の話や周囲の状況を認識するほど、自分が軽々しく言葉にすべきではないという想いが拮抗していた。まだ、伝えられていない想いはたくさんある。時間がそのわだかまったような気持ちに魔法をかけ、ワインのように豊穣な言葉で表現することができるよう、秘そかにそっと祈り続けている。

人も動物も木々や草花も・・・・・・生命は愛おしい。

Yuri

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社長のふと思う 第二十八回 「立春」という「新年」

「立春」という「新年」

あけましておめでとうございます。

寒中お見舞い申し上げます。

そして明日は「立春」である。「節分」でもあり、冬と春の季節の境の日、「節を分ける」日でもある。今年の立春(節分)の日は、ちょうど新月にあたり、ほんとうの意味での旧暦の新年にもあたる。いつもより特別な立春の日でもある。

一月は去年の内、ということになる。世の中という、時代の流れ、まだ空気や気配のようなものだが変わりつつあるのを感じているのは、私だけではないだろう。変わりつつあるような、あやふやな段階を過ぎて、明らかに“潮目”が変わった、と実感するようになったのも、去年の暮れぐらいからだろうか。今はまだ何と言ってよいのかわからないが、後何十年かすると「○○の時代」と言われるようになるのだろう。
かつて「ルネサンス」や「産業革命」と呼ばれる時代があったように・・・。

世界はどんどん流動化している。それはグローバルというのではなく、「モノ」と「モノ」、「人」と「人」、あるいは個人の「固体としての肉体」の境界がぼやけてきているような感覚、とでもいうのだろうか。

クローズされていたものがオープンになり、「融合」していくようなニュアンスかもしれない。「相対」とは真反対のありようである。それが何なのか。十年、二十年と混沌としたカオスのような時代が続き、新しい何かが生み出されるような、その直前のようにも思う。今はまだ「ルネサンス」を迎える前の「新たな中世」という時代なのかもしれない。

綿々と続いてきた二十世紀までの価値観とかつての「人間復興」と言われたような、新しい価値観へと大転換していく時代の間(はざま)を私たちは生きている。
意識していなくても、そのような時代の変化の中で価値観-人間の想い、怨念が拮抗して起こるエネルギーが、事件(政治も・・・)や環境の変化を、人々の意識の変化を、生み出しているようにも思う。

では、そのような時代の中でどう仕事を進めて行けばよいのか。
まず今までの常識を捨てること。「出来ない」「大変だ」・・・というマイナスから考えるのではなく、可能性から発想すること。根本の原理、基礎となる条件をよく理解すること。他者との比較ではなく、自分自身をライバルと思うこと。決断は理性ではなく、感性で。
こういったベースから仕事のあり方、やり方、進め方、進む方向を模索していこうと思っている。

個人的には、自分自身に対して冷静でいること(感情に振り回されないように)。選択しなければいけないときは、やはり理性ではなく、好きなほう、楽しいほうを選ぶ。「~ねばならない」を極力やめる。使う言葉に注意を払う。心の中には「愛」「平和」「豊かさ」「祝福」「感謝」・・・といったキーワードを意識している・・・。

私の茶道の流儀の御家元は「坐忘斎」という号を大徳寺の参禅の師より与えられていらっしゃる。何かただ、坐禅をしているだけ、坐っているだけの静的な印象しか受けず、地味な号だと、ずっと思っていた。(申し訳ありません。)

坐忘(ざぼう)――禅語で、新しいものは古いものを捨てた余白に生まれるもの。ゆえに、古いものをどんどん捨てていかなければ、新しいものは得られない。(生まれない。とも言ってよいかも・・・)簡略にしてしまうと、このような意味であるらしい。

今、私が心がけている言葉である。古い概念や、縛りから自由になり、思いっきり羽ばたきたいと思っている。

この、立春と新年が重なる稀有な一年の始めに、皆様も希望に満ちた思いで、平成二十三年という年を開いていってください。

福多き一年となられますよう、豆まきは忘れずに・・・。ぜひ大豆のお料理も、その日は召し上がってください。数え年の数の福豆も忘れずに・・・。

Yuri

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社長のふと思う 第二十七回 「師走は駆け足!」

今年も残すところ後、数日となった。年の暮れというのは、なぜかせわしない。走るのは「師」ばかりではなく、私たち凡人も右往左往している。

なにしろ、十二月は二十八日が月末になるので、いつもより前倒しにしていかないと仕事が追いつかない。二月も二十八日までだが、十二月は何かと用事が多い。積み上げた書類や雑誌、机の引き出し等々、新年を迎えるにあたってきれいにしておきたい、と思うのは昔ながらの日本人のDNAがなせる技か・・・と思いつつ、会社で家で、ふと気がついた場所に手を出してしまうと、後の予定が押してきて大変なのである。人はそれを愚図というか計画性がないというか微妙なところである。

京都は十二月十三日が“事始め”であり、この日からお正月の準備をしてよいことになっている。祇園等の花街では、芸奴さんや舞妓さんが舞の師匠やお世話になっているお茶屋さん等に挨拶にまわる。舞の師匠に鏡餅を納めるのが習わしだ。お稽古場の緋毛氈   が敷かれた雛段には、大小の鏡餅が飾られる。
「おめでとうさんどす」
「おきばりやす」
挨拶の後、一人ひとり稽古用の舞扇を頂く。茶道でも御家元に近い先生たちは、やはり、“事始め”のご挨拶に伺う。(我が師匠も京都まで出かける。但し、こちらは鏡餅も納めず、舞扇も頂かない。あたりまえだが・・・。)

そう、すでに十二月十三日から新年でもあるのだ。冬至にはゆず湯に入り、南瓜と小豆をいただく。二十八日には神棚の〆縄も榊(正月用の榊には松が入る。)もみな新しくし、鏡餅をお供えする。もちろん仏壇も同様に。それまでに“煤払い”でお掃除も常より念入りに済ませておく。我が家で鏡餅も飾る。青い柳に紅白のお餅を小さく、たくさんつけたものだが、飾ると気分は一気にお正月モードになる。そして門松。神棚も仏壇も清々しい雰囲気が漂う。

細々とした事を書きつらねたら、きりがないほどだ。ただ月が十二月から一月に進むだけだが、“新年”には格別の想いを込めて日本人は過ごしてきた。一年間、家にも自分にも仕事場にも、知らず知らずのうちに積もっていく、目に見える“ほこり”と目にみえない“ほこり”を捨て去り、新しく生まれ変わる。そのための段取りが、新年にむけての色々な準備なのだろう。部屋も頭の中もスペースがなくては、“新しいもの”は入ってこれない。余裕やゆとりがないところには“福の神”様はきてくださらないのだろう。

清浄なところに清浄なものが、汚れているものが、磁石のように引き寄せられていくのだと思う。今年も数字に追われ慌立々しく過ぎてしまったが、気持ちを入れかえて、清々しい気持ちで新年を迎えたいと思っている。

私の拙い文章を読んでくださっている方々、お一人おひとりに、すべての佳きことが押し寄せますように。どうぞ、すべての佳きことを受け取ってください。
今年も一年、ありがとうございます。
心よりの感謝を込めて・・・。

なかよきの
  とおのねふりの みなめざめ
   なみのりふねの
    おとのよきかな

どうぞ、この文字を書いた紙を枕の下に入れて一月一日、元旦の夜はお寝みください。きっと縁起のよい初夢がご覧になれます。枕の下に入れる時もこの呪文のような歌を口ずさんでください。(どちらから詠んでも同じというところがミソ!のようです。)

Yuri

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