社長のふと思う 第三十六回 ”歌舞伎座開場に思うこと その1”
歌舞伎座開場に思うこと -その1-
4月2日より始まった新・歌舞伎座(第五期)の杮葺落(こけらおとし)公演の3ヶ月が無事に過ぎた。7月は若手の花形歌舞伎で尾上菊之助、市川染五郎、尾上松緑らが初役にそれぞれ挑む。(杮葺落公演は一年続くのだけれど・・・。)
2010年4月の閉場式から開場まで2年11ヶ月が経っている。言うまでもなく、この短い期間に5人の名優が旅立ってしまった。中村雀右衛門、中村富十郎、中村芝翫、そして昨年12月には中村勘三郎、今年二月に市川團十郎といった長年舞台でのその姿を観てきた役者が、新しい歌舞伎座の舞台にはもういない。寂しくもあり、人の命の儚さも身に沁みる。
ことに中村富十郎丈には思い出がある。先代が叙勲のおり、全鍍連の会長も努められた、吉川弘二氏が、有志で神田明神下の料亭、「宝亭」でお祝いの席を設けてくださった。その時、吉川氏は“御祝儀”に何と中村富十郎丈を招いてくださったのである。
長年、藤間勘十郎師について日本舞踊の研鑽をされていたご長男の奥様が、富十郎丈の歌舞伎座での出演が終わるのを待って、宝亭までお連れくださった。黒紋付に袴という出立ちで、はたして何を舞ってくださったのか・・・御祝儀曲には違いないのだが、はっきりと憶えていない。ただ、きっちりと安定した型に“踊りの上手とはこういうことをいうのだろうか”と漠然と感じたことだけは、記憶に残っている。
まあ、そのときの芸者衆の“騒ぎ”といったら!他のお座敷の芸者衆まで富十郎丈の踊りを一目見ようと覗きに来る始末で、よく襖が倒れなかったものだと感心するほどである。日頃より、日本舞踊を業としている彼女たちにとっては、富十郎丈は「雲の上」の存在のようであった。控室には、吉川氏やご長男の奥様はもちろんのこと、芸者衆も押しかけてくるので、こちらは襖を開け放しの状態で賑やかなことだった。
今思い返すと、先代の吉川氏には、ほんとうに大変なご配慮をいただき、ただただ感謝でいっぱいである。父とも気が合ったとみえ、お酒を召し上がらない吉川氏がクリーム色の“センチュリー”を運転して迎えにきてくださり、色々なところに私もご相伴で食事に連れて行っていただいたことが懐かしく思い出される。
ある時、吉川氏は“お茶のお稽古がしたい”とおっしゃるので、私の師を紹介させていただいた。が、なんと! 私に教わりたいとおっしゃるではないか! 結局、私も根負けし父も吉川氏のお稽古に付き合うことになり、何とも不思議なことになってしまった。
以来、歌舞伎座の舞台で富十郎丈を観るたび、宝亭でのことが思い出され、勝手に私は親しみを感じていた。もう十五、六年も前になるだろうか。冬、歌舞伎座の夜の部の公演が終わった後、私は友人とおでん屋のカウンターに居た。しばらくして親子ほども年が違う男女の二人連れが入ってきて、私たちの隣りに座った。チラッと見ると、男性のほうは、富十郎丈ではないか! 女性の顔はよくわからなかったが和服で身のこなしがきれいな方だったので、日舞の関係者かな、と思っていた。
宝亭からはすでに十年以上の月日が経っていて、富十郎丈の髪も真っ白になっていた。ややあって、ネクタイにおでんの汁を垂らしてしまった富十郎丈を「しょうがないですね。」という風情で、連れの女性はおしぼりでネクタイを拭いてあげていた。その後、間もなくお二人はご結婚された。 そしてお二人のご長男は「中村鷹乃資」として、まだ十代だがお父様の跡を継ぐべく一生懸命お稽古をしていると、現吉川社長の奥様より伺った。やはり藤間勘十郎師について研鑽しているそうだが、熱心さが他の人より抜きんでているというお話だった。
継承していくということは、血筋は継いでいても、そのままではダメだということだ。“素の自分”を名跡を継ぐにふさわしい存在に育て進化していかなくてはならない。持っている才能も鍛え上げなければ、大したものにはならない。継ぐべきことがあるのは有り難いことでもあるが、プレッシャーでもある。大なり小なり、皆それぞれが、それぞれの“頂き”を目指して奮闘している。私も世間的には決して若い世代ではないが、日々少しでも進化していけるよう初々しい心は持ち続けていたいと思う。
富十郎丈は私のことなど知る由もないことだが、一方的に人のご縁というものは不思議なものだと思っている。お盆が近いせいか、ふと亡き人たちのことがとても懐かしく、愛おしく思い出されるのである。
Yuri
| 固定リンク
最近のコメント